北海道に行くなら、楽しいことはもちろん、北方領土問題を考えてもよいでしょう。
というのも、この問題を扱うことで、日本人の視点から、国際人の視点へと変わり、北海道を見る目がまったく変わるからです。
旅行前は、北方領土問題の歴史を頭の片隅に入れると新たな発見があるかもしれません。
この記事で、その歴史をわかりやすく解説しますね。
目次
北方領土問題をわかりやすく解説!ロシアやアメリカ、中国の立場は?
日本とロシアは隣国同士です。
しかし、あまり馴染みがないと感じる人も多いのではないでしょうか。
それはあまり良好だとはいえない政治的関係が、私たちの思い浮かべるロシアのイメージに強く影響しているからかもしれません。
日本とロシアに介在する問題としては、北方領土問題を真っ先に挙げられます。
北海道、とくに東側は、北方領土にも近い場所です。
領土問題の歴史を考えることで、旅行に行った時にも日本人としての観点からだけでなく、ロシア側の観点からも、北海道を眺められるのです。
それでは、北方領土問題の歴史についてわかりやすく解説していきますね。
<そもそも北方領土はどんなところ?>
「北方領土」と聞いて、即座にどの地域を指すか、思い浮かべることはできるでしょうか。
北海道とロシアの間にある島であることは分かるけれど、どの島を指すのかはなかなか分からないかもしれません。
それは正しい答えではありますが、正確にどの島を指すか分かるでしょうか。
北方領土は具体的に、歯舞群島・色丹島・国後島。択捉島の4つを指します。
現在これらの島は、事実上ロシアが支配しており、日本・ロシアの両国が自分の領土であると主張している場所です。
なぜ、北方領土がロシアと日本にとって重要なのか。
理由の一つとしては、この地域は水産資源が豊富で、エネルギー面や資源面で恵まれていることが挙げられます。
さらにロシア側からすれば、北方領土を確保することで、ロシア海軍が太平洋に自由にアクセスできるというメリットがあります。
両者にはそれぞれの言い分がありますが、このようなメリットがあり、互いに自国の領土であることを主張しているのですね。
日本側の主張において「北方領土はもともと日本のものだった」と言いますが、一体いつごろから、この地域が日本の領土として考えられるようになったのでしょう。
次は北方領土の歴史をたどってみましょう。
<日本とロシアの国境はいつできた?>
歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島の4島は今でこそ、北方領土として日本・ロシア両国民に認知されていますが、日本側の主張では、この土地はもともと日本のものであるということになっています。
その根拠として挙げられるのが1855年の日露和親条約です。
この条約は日本とロシアの間で正式に国境を確定したものです。
このときの国境は、択捉島と得撫島の間に定められました。
つまり、現在の北方領土がすべて日本の領土に含まれていたのです。
その後1875年に締結された樺太千島交換条約で千島列島を、日露戦争後1905年のポーツマス条約で日本は南樺太を獲得し、領土を広げていきました。
<北方領土問題のはじまり>
それでは、実際に日本とロシアの間で北方領土の問題が生じた原因は何でしょうか。
それは第二次世界大戦です。
第二次世界大戦が終結し、8月15日をもって日本はポツダム宣言を受諾し、連合国側に降伏しました。
しかし、ソ連軍はこの宣言後も日本への侵攻を続け、千島列島を南下して、ついには北方領土を占領しました。
ロシア側の主張は、この時に北方領土が正式にロシア領となった、ということなのです。
その後、1951年にはサンフランシスコ条約が締結されましたが、ここにおいて日本は千島列島を放棄することになりました。
そこで問題になったのは、「千島列島とはどの範囲を指しているのか」ということです。
千島列島の範囲については日本とロシアで言い分が分かれており、それが現在まで続いています。
日本側は、1875年の樺太千島交換条約を根拠に、千島列島には北方領土は含まないと主張しており、ロシア側は北方領土も含むものとして考えているのですね。
しかし、当時サンフランシスコ条約が締結された時には、日本とロシアが直接互いの認識を伝え合う機会には恵まれませんでした。
というのも、条約が締結される当時は冷戦中であり、ソ連は参加していなかったからです。
さらに、千島列島の範囲については、日本国内でも認識が異なっているということが露呈しました。
条約調印前に行われたサンフランシスコ講和会議にて、日本全権を務める吉田茂首相は、歯舞・色丹島が北海道の一部であり、千島列島には含まれていないと明確に言及しましたが、残り2つの国後島・択捉島については元来日本の領土であるとの主張しか行いませんでした。
しかし、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月に千島列島には国後島・択捉島も含まれているとの見解を示しています。
このように、ソ連との直接の対話が行われないまま、日本国内でも千島列島の定義があいまいになってしまったため、北方領土の問題はその後も続いてゆくことになります。
<アメリカの思惑と日ソ共同宣言>
サンフランシスコ条約の締結以降、北方領土をめぐって日本とソ連の間には多くの交渉が行われてきました。
1956年10月の日ソ共同宣言においては、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が戦争状態を終結させることと国交を回復させることについて合意しました。
これは「共同宣言」という形を取っていましたが、本来は「平和宣言」を締結するはずでした。
しかし、北方領土問題が原因となり、「共同宣言」の形にとどまったのです。
当時、日本側は北方領土4島の返還を要求していましたが、ソ連側は歯舞諸島と色丹島の2島のみを主張していました。
日本が北方領土4島すべての返還を要求するのは当然のこと、と思うかもしれません。
しかし、実は裏にはアメリカの思惑がひそんでいました。
1956年という年代を考えると、当時はまさに冷戦の渦中でしたよね。
この時期、アメリカとソ連は互いに睨みをきかせていました。
そんな中、アメリカは日本とソ連が互いに歩み寄ったことを懸念し、1956年9月に日本の外務省に向け、北方領土4島すべてが日本の主権下に置かれなければならないという覚書を送ったのでした。
アメリカが北方領土問題を持ち込ませることで、歩み寄ろうとする日本とソ連の間に、多少の緊張感が生じたのです。
その結果、「平和宣言」ではなく「共同宣言」に留まり、ソ連が返しても良いと主張していた歯舞諸島・色丹島も、あくまで「平和条約」が両国間に締結された後にようやく返還されることが決められました。
このようにして、北方領土の返還は先延ばしになったのです。
<日ソ間交渉の停滞>
その後1960年代から70年代にかけては日ソ関係も停滞します。
ソ連側は1960年の日米安保条約の改定延長を受けて、日ソ共同宣言での取り決めを後退させ、日本側は北方領土4島すべてを返還してもらえないかぎり、条約締結はできないとの立場を表明しました。
70年代には日本で沖縄返還がなされたために、北方領土の返還へ期待が膨らみましたが、ソ連側もちょうどこの時期に中国との関係が悪化していたため、中国が日米に歩み寄ることを懸念して、再び日本とソ連の間には歩み寄りの動きが見られるようになりました。
しかし、79年にはソ連によるアフガニスタン侵攻が原因となり、冷戦が悪化したため、日ソ間の対話は停滞の一途をたどることになります。
<日ソ間・日ロ間の融和の動きと北方領土問題>
しかし80年代後半、ゴルバチョフ書記長が「ペレストロイカ(政治改革)」を主張し、北方領土を両国の困難な問題として重要視するようになりました。
ゴルバチョフ書記長の時代には、北方領土について日本とソ連の双方間で詳細で徹底的な対話が行われたのですね。
その後、ソ連側の大きな動きとしては1991年のソ連崩壊が挙げられます。
ソ連崩壊後のロシア連邦ではエリツィン大統領が就任し、民主主義・市場経済を導入する動きが活発化したため、ロシアの先をゆく日本はロシア連邦のパートナーとして迎えられました。
1993年には細川首相とエリツィン大統領が会談を行い、北方領土問題を解決した上で、早期に平和条約を結ぶとの意思を示した日露共同文書が発表されることになります。
<再び、日ロ交渉停滞の時代へ>
しかし、2000年のプーチン大統領の訪日以降においては、北方領土問題に関する日本・ロシア間の交渉は停滞し、現在も突破口さぐる状態が続いています。
冷戦がとっくに終了した2000年以降も、ロシアと日本の北方領土問題にはアメリカが深く関わっていることを見逃せません。
実際、2010年11月、メドヴェージェフ大統領が北方領土の国後島を後にした時には、クローリー国務次官補は「北方領土に関して日本を支持している」と述べています。
アメリカサイドの日本が、ロシアの目と鼻の先にある北方領土に進出することを、ロシアが良く思っていないのは自明のことです。
これは主に日ロ2国間の問題ではありますが、それ以外の国際関係上の問題が複雑に絡み合っているのですね。
【まとめ】
北方領土をめぐる問題は、今にはじまったものではなく、幕末から問題の種がまかれているのですね。
北方領土が日本のものか、ロシアのものか決定づけるカギを握るのは、千島列島でしょう。
どこからどこまでを千島列島であると定義するかで、北方領土は誰のものなのか、結論はまったく異なるのです。
さらに、北方領土の問題は単に日本とロシアの2国間の問題ではない、ということも注目すべき点です。
日本の後ろにはアメリカがついており、ロシアに対する圧力をかけ続けているのです。
冷戦が日ロ間の北方領土問題についての対話を滞らせていたことを考えると、この問題から国際関係が浮かび上がるのですね。
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