新撰組の副隊長として活躍した土方歳三は、箱館戦争で最後まで戦い続け、決して降伏しませんでした。
なぜ、彼はこの戦争で戦いの意志を貫き通したのか。
彼の意図を探り、歴史に生きた人間のドラマを垣間見るという視点から、函館旅行を楽しむのも意義深いものです。
観光前にはこの記事で、土方が降伏しなかった理由について考えてみましょう。
目次
土方歳三はなぜ五稜郭まで戦い続けたのか?降伏しなかった理由は?
新撰組の副隊長として活躍していた土方歳三は、箱館戦争でその生涯を終えました。
最期をむかえるその時まで、果敢に戦いつづけた彼は、なぜ苦しい状況にあっても降伏しなかったのでしょうか。
箱館戦争で旧幕府側は新政府側に敗れてしまいますが、この戦いでの土方の活躍ぶりからは、彼の強い信念がうかがい知れます。
彼が戦を辞めなかった理由を考えることで、土方の生き様をのぞくことができるのですね。
早速、その理由について探ってまいりましょう。
その前に、土方歳三がどのような人物であったのか、確認してみましょう。
<新撰組の副隊長・土方歳三はどんな人?>
「武士よりも武士らしく生き、新撰組を天下一の組織にして近藤勇の名を世間に轟かせる」。
確固とした信念を貫きながらも、柔軟な視点を持ち、激動の時代を生きた人物が土方歳三です。
彼は幕末期に活躍した新撰組の副長として知られていますよね。
昔の話ですが、大河ドラマ「新撰組」で近藤勇の右腕として、土方歳三が登場したことを覚えている人も多いのではないでしょうか。
彼は戊辰戦争最後の戦場となった五稜郭で戦死しましたが、その生涯は一体どのようなものだったのでしょうか。
土方はもともと、武士の家系ではなく、農家の家系に生まれました。
彼は幼い頃に父と母を結核で亡くしており、兄弟夫婦に育てられました。
子供のころには、武士を強く夢見て、武士になったら竹で矢をつくると言って自ら植えたというエピソードが残っており、彼の生家はその竹が植えられています。
少年・青年期については定かではありませんが、今のところ土方は14歳から24歳の10年間に渡って奉公に出ていたと推測できます。
奉公の後、土方歳三は行商を行いながら、剣術の道に足を踏み入れることになります。
各地の剣術道場で修業を積み重ね、やがて義兄弟が開いていた天然理心流という剣術の道場に入門します。
この出来事が彼の人生を大きく変えてゆくことになります。
彼はこの場所で指導に来ていた近藤勇に出会ったのです。
その後、土方は天然心理流の道場・試衛館の仲間と共に浪士組に応募して、京都へと赴くことになります。
浪士組応募のため、京都に赴いた土方たちは壬生の浪士組として活躍し、その成果が認められ、新撰組が発足することになります。
新撰組内では土方が副長の地位に就き、その知恵と策で組織を統率します。
新撰組といえば近藤勇を真っ先に思い浮かべがちですが、実は土方がいなければ組織のまとまりはなかった、とも言われるほどのリーダーシップを持っていたのです。
その後、新撰組は戊辰戦争に参加することになりますが、戦況は思うように好転しませんでした。
戊辰戦争は京都の鳥羽・伏見の戦いで始まり、次第に戦地が北上して東北、さらには蝦夷地に到達します。
戊辰戦争の最後を飾る戦いは、蝦夷地で繰り広げられた箱館戦争でしたが、土方歳三はこの地で最期を迎えることになるのです。
蝦夷地での戦いにおいても、幕府側の軍は敗北ばかりでしたが、土方は最後まで戦い続けました。
なぜ、彼は″鬼の副長″として最後の最後まで戦い続けたのでしょうか。
後半では、早速この疑問について探っていきましょう。
その前に、次の項目では戊辰戦争における、蝦夷地での土方歳三の活躍について確認してみますね。
<土方歳三と箱館戦争とは?>
土方歳三は1869年に箱館戦争で戦死しました。
その死に至るまで、彼はどのような戦いを繰り広げてきたのでしょうか。
旧幕府側の軍隊が蝦夷地に上陸したのは、1868年の10月20日のことでした。
土方は上陸後に直ちに五稜郭を占領し、さらには松前に進軍して松前城を陥落させました。
さらに、彼は江差にて敵の残兵を追撃し、この土地も占領しました。
その後、彼は松前城に戻り、榎本武揚が各国の領事を招待していた蝦夷地平定祝賀会の日程に合わせて五稜郭へ凱旋しました。
彼が五稜郭に戻ってきた後には、五稜郭を根拠地とした「蝦夷共和国」が建てられ、総裁には榎本が、幹部にあたる陸軍奉行並や陸海軍裁判局頭取には土方が就きます。
箱館政府が樹立したとき、榎本らが祝杯を交わしている中、彼だけは一人沈黙のまま「今は騒ぎ浮かれるときではない」という言葉を口にしたというエピソードが残っています。
旧幕府側にとって箱館戦争の前半は有利な戦況でしたが、新政府軍が蝦夷地の乙部に上陸してから、状況は一変します。
土方軍は二股口を死守したものの、もう一方の松前口が破られてしまい、仕方なく二股口を退却して五稜郭へ帰還することになりました。
1869年からは、新政府軍の箱館総攻撃が開始されます。
この総攻撃により、弁天台場は新政府軍に包囲されてしまい、土方はわずかな兵を率いて出陣することになります。
彼はこの戦闘において、箱館一本木関門を守備する役目を果たし、新政府軍に応戦します。
戦闘中、彼は馬の上で指揮を執りましたが、腹部を銃弾で貫かれ、側近が駆けつけたときには絶命していました。
彼が最後にのこした言葉は、「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも東の君やまもらむ(たとえ私の身が、蝦夷の地で朽ち果ててしまうとしても、魂は東にいる君を守るだろう)」だと言われています。
「東の君」が誰を指しているのか、気になるところですが、真相は闇の中に閉ざされたままです。
<土方歳三はなぜ降伏しなかったの?>
土方歳三は、最箱館戦争で戦死することになりましたが、降伏はしていません。
降伏は、同じく箱館戦争にて旧幕府軍側として参戦していた榎本武揚によって行われました。
土方が最後まで戦い続けた理由について、「滅びの美学」を貫き通したと考えられることが多いもの。
滅んでゆくものの美しさは、散りゆく桜を美しいと感じる日本人の心からもうかがえますよね。
しかし、土方に「滅びの美学」を感じているのは、あくまでも私たちであり、土方本人ではありません。
なぜ土方が降伏しなかったのか、その理由については土方のみ知るものですが、最大の理由として考えられるのは、近藤勇の処遇です。
近藤勇は現在の千葉にて捕えられ、2週間後には斬首させられています。
近藤勇は、新政府軍に包囲された時に切腹を試みました。
そんな近藤に土方は、「ここで死んでしまっては犬死だ。板橋総督府に向かい、あくまでも鎮部隊として活動していたことを伝えれば、申し開きできる」と説得して、切腹を止めました。
しかし、不幸なことに、新政府軍の本営に出向いた結果、近藤は切腹さえ許されずに罪人として首を切られてしまったのです。
自分の助言が原因となり、戦友として共に歩んできた近藤勇が殺されてしまったことは、土方歳三にとってはあまりに衝撃的なことであり、心に深い傷を負ったはずです。
「斬首させられる大恥をかくくらいならば、切腹させてやればよかった」という後悔は大きいものでしょう。
「武士よりも、武士らしく」、この言葉を信念にしていた土方にとって、自分が近藤を斬首させてしまったことは、新撰組の誇りを踏みにじる行為だと捉え、自らへの戒めの気持ちも込め、自分から降伏することを拒んだと考えられるでしょう。
おそらく、このような意思をもち、土方歳三は旧幕府側の軍の幹部の中で唯一降伏することなく、新撰組の誇りを守り抜いたのです。
一方で、彼は旧幕府側の立場にあり、徳川幕府のために戦いつづけたのではないか、という仮説も立てられるでしょう。
しかし、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いの時点で、自ら政権の掌握をあきらめ、家臣を置いて江戸に逃げてしまいました。
家臣を裏切るような主君に忠誠を誓う、ということは極めて考えにくいものです。
このことを考慮に入れると、やはり土方歳三が降伏しなかった理由は、近藤勇の死に求められるのかもしれません。
【まとめ】
今回は、土方歳三がなぜ降伏せず、最後まで戦いつづけたのか、その意図について探ってみました。
本人にしかその意志を理解することはできませんが、歴史上の人物がどのような信念をもち、生きたのかを知ることは人生の指針になるでしょう。
「武士よりも、武士らしく」。
彼はまさにこの言葉の如く、自分の道を歩んだのです。
最後に、今回の記事に関連して、土方歳三にかかわる史跡や本などおすすめのものがあればお気軽にコメントください。皆さんからのコメントが集まることで、お互いに情報交換できますよ。
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