民族を知ることで、その土地の歴史を知る。
アイヌ民族についてどれほどのことを知っているでしょうか。
北海道旅行に行けば、何度もアイヌ民族の文化を目にするはずです。
彼らはどんな歴史を歩んできたのか。
目に見えない歴史を知ることで、北海道が立体的に浮かび上がります。
今回は、アイヌ民族の文化と歴史、差別や和人との戦い内容について確認していきますね。
目次
北海道アイヌ民族の文化と歴史まとめ!差別や和人との戦い内容とは?
日本で生まれ育つと、民族という言葉を意識することはありません。
少数民族のすくない日本ですから、無理もありませんよね。
でも、日本人自体が一つの民族ですし、日本にもすくなからず少数民族が存在します。
その代表がアイヌ民族。
今でこそ、彼らの文化を保護・保存するため、積極的な活動が展開されていますが、ここに至るまで長い時間がかかりました。
アイヌ民族はどのような歴史を背負ってきたのでしょうか。
北海道を訪れるのであれば、知っておきたいこと。
早速、アイヌ民族の歴史について探ってみましょう。
<アイヌ民族ってどんな人たち?>
マイノリティーの問題について考える際に、日本ではアイヌ民族が取り上げられることが多いでしょう。
でも、そもそもアイヌ民族とはどのような文化・生活習慣をもち、どんな歴史的背景を背負っているのか知っているでしょうか。
アイヌ民族とは、もともと物々交換を行っていた狩猟採集民族です。
具体的に、彼らは現在のロシアであるハバロフスク地方のアムール川下流域・カムチャツカ半島・沿海州あたりの地域を対象に、地元で採れた海産物や毛皮などをもち込んで取引していました。
今は、北海道とロシアが彼らの住む土地ですが、もともとは東北地方北部よりも北の地域、ロシアやカムチャツカ半島南部に住んでいました。
これらの地域は「アイヌシモリ」、つまり″人間の住む大地″と呼ばれています。
だいたい17世紀から19世紀にかけてのことです。
しかし、この時期の前後、彼らはアイヌシモリと隣り合う地域にも移動し、別の民族との接触をもっていたことも明らかです。
その証拠として、アイヌシモリ以外の地域でも、アイヌ語がもととなった地名が残っていることが挙げられます。
日本ではかなり前からアイヌ民族の存在が認知されており、すでに8世紀に書かれた古事記・日本書紀の中に、アイヌ民族が描かれています。
アイヌ民族についてよく知られていることは、日本が行なった「同化政策」なのではないでしょうか。
これについては、また後ほど歴史についての項目でご紹介しますが、19世紀以降からはじまった同化政策により、アイヌ民族はオリジナルの文化や言語を失い、人口も減ってしまいました。
現在では、日本内地から移住してきた「和人」との混血化が進み、純粋にアイヌ民族の遺伝子を受け継いでいる人はほとんどいません。
ただ、2016年にはアイヌ民族の少女が主人公である「ゴールデンカムイ」というマンガがマンガ大賞を受賞していたり、地元の北海道ではアイヌ民族の村である「アイヌコタン」が観光スポットとして門戸を開いていたりと、アイヌ民族がより身近になりつつあるのも事実です。
アイヌコタンについては、「北海道のおすすめの卒業旅行の場所は?」の記事でもご紹介しているので、北海道旅行に行く際にご参考にしてみてくださいね。
<アイヌ文化初期の時代>
アイヌ民族は東北地方北部からロシア、カムチャツカ半島南部にかけての地域に住んでいましたが、いつ・どこから来た民族なのか、正式に分かっていません。
しかし、北海道には各地で昔の人々が使用した石器が見つかっており、数万年前から人が住んでいたことが明らかにされています。
アイヌ民族の起源についてはいまだ不明であるものの、アイヌ文化の形成については明確です。
アイヌ文化のもととなったのは7世紀ごろから13世紀ごろにかけて栄えた擦文文化です。
この文化は、本州の土師器の影響を受けた、擦文土器と呼ばれる土器を使う北海道独特の文化です。
アイヌ文化と同じく、擦文文化において人々の主な生業は漁労でした。
<アイヌの交易の歴史>
13世紀以降、擦文文化の時代を終えるとようやく、アイヌ文化が成立するようになります。
この時期のアイヌ民族は活発な貿易を行っており、13世紀の中国の史料や17世紀のキリスト教宣教師の記録に、交易についての言及が残されています。
前者においては、アムール川下流域へと勢力を伸ばした元との交易上の摩擦について、後者においては、中国製の絹織物を運ぶアイヌとの交易により、松前が繁栄する様子が描かれています。
交易において、彼らが持ち込んでいたものは、狩猟で得たエゾシカ・タカ・クロテンなど、その他ガラス玉、絹織物、金属製品などでした。
これらの品は、アイヌシモリ周辺の他の民族にも広まりました。
その証拠として、アイヌ民族の狩猟用具や漁労用具が、他の周辺民族と非常によく似通っていることが挙げられます。
さらに、彼らは和人(日本内地に住む人々、日本人)との交易も行っていました。
しかし、よく知られるように和人との間にはいつくもの戦いが繰り広げられてきたのです。
<和人との戦い>
日本の鎌倉時代・戦国時代にかけてアイヌが民族的にまとまりを見せるようになると、和人がアイヌ民族の地に進出し、交易が行われるようになりました。
しかし、両者が接触する機会が増えると同時に、摩擦も頻繁に生じるようになります。
その中でも有名な戦いが、コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いです。
今年の「シャクシャイン法要祭」(新ひだか町)は、9月22日の開催です。シャクシャインのチャシ(砦)があった真歌公園に、多くのアイヌ民族が集まり、民族の存続を掛けて松前藩と戦い、命を落とした英雄シャクシャインを供養します。 pic.twitter.com/84iNwIfUQO
— あきら☆キラヽ(・ω・)/キラ☆ (@Akky_Star) 2016年8月15日
コシャマインの戦いは15世紀半ばに起ったもの。
和人がアイヌの少年を殺した事件がきっかけとなり、事件が起きた地域の首領であったコシャマイン率いるアイヌ軍が和人を攻めました。
しかし、松前藩主の始祖によってコシャマインは討たれてしまい、アイヌ側の敗北に終わりました。
この戦いの後、和人の支配はより一層強化されることになります。
コシャマインの戦いからおよそ200年後、17世紀半ばにはアイヌの狩猟採集場をめぐってアイヌと松前藩が争いました。
この戦いでは、両勢力が拮抗し、和睦を結ぶに至りましたが、酒宴を行っている最中に首長であったシャクシャインが殺害され、結局アイヌの敗北に終わったのです。
大手の土塁と空堀、やっぱりいいです。手前にはコシャマインの戦いの時のアイヌ・和人の慰霊碑がありました。 pic.twitter.com/qzWzEkKnc7
— KUBO (@ts_kubo) 2017年8月6日
そして18世紀後半には、クナシリ・メナシの戦いが起こります。
この戦いは、和人による劣悪な商取引や労働環境が原因となって起こったもの。
アイヌの人々が和人の横暴さに耐えられず蜂起を起こしたため、松前藩が出兵することになりましたが、実際の戦闘には至りませんでした。
しかし、この戦い以降、和人のアイヌ支配は以前にもまして強まる一方だったのです。
<明治期以降のアイヌ民族と現在>
ゴールデンカムイの影響でアイヌ文化について簡単に調べてみてるけど、写真にヒグマ君がナチュラルにいて笑う pic.twitter.com/xKiMMOVdxl
— くろいぬは親知らずを抜きたい (@kokuryu_0310) 2018年5月12日
江戸時代も終わりを告げ、明治が幕を開けると、北海道は一方的に日本の領土として組み込まれることになります。
このような動きに伴い、アイヌ民族を戸籍に登録し、日本国民として強制的に受け入れる一方、「土人」として差別したのです。
同化政策により、日本人と同じような生活を強いられていたにもかかわらず、依然、日本人として扱われることはなかったのですね。
アイヌに対する同化政策としては、彼らの習慣であった女性の入れ墨・男性の耳輪・亡くなった人をあの世に送る家送りの風習などの禁止、そして日本語の強制などが挙げられます。
本州北端から北海道、樺太、千島に先住していた、アイヌ民族の写真です。
自動色付け機能とGoogleフォトの加工機能を使用し、
白黒写真だったものをカラー化しました。
元写真は"vintage everyday"より。https://t.co/CkH816AhUp pic.twitter.com/IcafHCkJlr— undarken memories (@undarkenmemory) 2018年5月10日
20世紀に突入すると、アイヌ民族出身者が中心となり、差別を行う社会への批判や同じアイヌ民族の同胞への呼びかけ活動を行う人々が目立つようになります。
実際に、1920年代には詩や和歌の創作活動をとおして社会批判を行うアイヌ出身者も登場しました。
その後、日本は戦争の時代へと突入しますが、日本軍の内部でもアイヌ民族への差別が見られたようです。
このように何世紀もの間、和人による差別を受けてきたアイヌ民族の文化が保護されるようになったのは、戦後のことでした。
1946年にはアイヌの社会的地位の向上・民族としての誇りの確立を目的として北海道アイヌ協会が設立され、さらに1970年代からは北海道の各地でアイヌ文化の伝承・保存をめざす活動が行われるようになります。
みんぱくでは、12/1に「ミンパク オッタ カムイノミ」を開催。所蔵するアイヌの標本資料の安全な保管と後世への確実な伝承を目的とし、カムイ(神・霊的存在)に対し祈りを捧げる儀礼です
なお、今後始まる「アイヌ展示 チアシリカラ!」では、アイヌ文化を紹介するイベントを随時開催します! pic.twitter.com/FOA0WcKYuJ— 国立民族学博物館 (@MINPAKUofficial) 2016年12月3日
以降も次々とアイヌ民族の文化を保護し、民族の地位向上・政治的な権利の獲得をめざす活動が展開されていきましたが、その中でも決定的な出来事は1997年の「北海道旧土人保護法」の廃止です。
この法律に代わり、「アイヌ文化の振興並びに啓発に関するアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定されることになったのです。
これが制定されたことにより、現在、アイヌ文化の振興・普及活動がより一層活発に行われるようになったのです。
【まとめ】
北海道に行けば、さまざまな場所でアイヌの文化に触れることでしょう。
あらゆる場所にアイヌ語の地名が残っていたり、アイヌ民族の村があったり、観光しているだけでも自然と自分の目に飛び込んできます。
でも、素通りしているだけでは本当にアイヌ民族の文化に触れたとは言えませんよね。
今回ご紹介した歴史を思い出しながら、アイヌコタンやアイヌ文化に触れられる場所をめぐってみてはいかがでしょう。
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皆さんからのコメントをもとに、より一層旅行が楽しくなるような記事を執筆してまいります。
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