「日本の首都は、大阪になっていたかもしれない。」
驚くかもしれませんが、この可能性は十分あったのです。
そんなことを聞くと、一体なぜ明治天皇は東京に移ったのか気になりますよね。
遷都の歴史背景を知ることで、関西や関東の人々の、互いへの認識を俯瞰できるのも面白い点です。
なぜ東京が首都なのか、今回はこのなぞに迫りましょう。
目次
なぜ明治天皇は東京に遷都したのか?大阪の可能性もあった!
実は、必ずしも東京が首都になるとは限らなかった。
こんな話を聞いたら驚いてしまうかもしれません。
しかし、歴史を見てみると、本当にさまざまな可能性があったことに気づかされます。
どのような流れで、なぜ明治天皇は東京に移ったのか。
つまり、なぜ東京が政治の中心地・首都として機能するようになったのか、日本人としてもおさえておきたいところですよね。
大阪・京都方面、あるいは東京へ旅行に行くときにも、この知識をもっていれば、その土地を見る目が変わるはず。
そこで、今回はなぜ東京への遷都が行なわれたのか、時代の流れを追って確認してみましょう。
<日本の首都は大阪になっていたかもしれない!?>
いうまでもなく、日本の首都が東京であることは常識です。
しかし、大政奉還や王政復古が行なわれた直後は、江戸の情勢が不安定であったために、首都になる可能性はそれほど高くなかったのです。
それでは、一体どこが首都の候補として考えられていたのでしょうか。
幕末においては、大政奉還や王政復古により、京都が政治の中心地となっていました。
しかし、新政府内では遷都を行った方がよいのではないかとの声が上がります。
そのとき、提案された遷都先が大阪だったのです。
すでに、遷都先は大阪がよいのではないか、という声があがっていましたが、この提案が有力になったきっかけは、大久保利通の大阪遷都案でした。
彼は1868年に大阪遷都の建白書を提出しましたが、遷都を行ってしまえば京都を放棄することになるとの反発を招き、建白書は廃案となります。
しかしその代わりに、反発側にも受け入れられやすいよう、大久保は一時的な大阪行幸を提案し、これに関しては受け入れられました。
もちろん、たかが大阪行幸であれ、これがきっかけで本当に遷都につながってしまうのではないか、との懸念から反発の声もあがりました。
しかし、実際に大阪行幸が行われたのちに、大阪が首都になる可能性は低くなったのです。
なぜなら、1868年には江戸が無血開城されることになり、そちらに注目が集まるようになったからです。
<江戸遷都のきっかけは…>
さて、江戸城が無血開城されるようになり、江戸への注目が集まるようになりましたが、実際にこの地への遷都が決定的になった要因は何でしょうか。
それは開成所の教授を務めていた前島密という人物がカギを握ります。
開成所とは1963年にできた江戸幕府の洋学教育研究機関でしたが、その教授を務めていた前島密は、日本の近代郵便制度を創設した人物として知られていますよね。
実は江戸への遷都説が有力になった一因は、かの前島が提出した江戸遷都論という建白書だったのです。
江戸遷都論において、彼の言い分は次のとおりでした。
大阪はすでに安定して繁栄しており、あえて遷都しなくても衰退する心配はない。
その一方、大都市になりつつある江戸は未だ不安定であるが、この地を首都にしないかぎり、市民はすぐに離れて廃れてしまう。
このように、すでに発展を遂げ、安定した地位を築いていた大阪ではなく、発達途上であった江戸に首都をおき、政治の中心地として確立させることを最優先したのです。
この建白書は大阪遷都を唱えていた大久保の手に渡りましたが、彼もやはり前島の案を聞いて、江戸に遷都するのが良いと考え、案を支持したのです。
<東西両都案と天皇の東京行幸>
前島密の建白書をはじめとして、江戸への遷都案が有力になりましたが、すぐに遷都が行われたわけではありませんでした。
というのも、東西両都案が提出されたからです。
これは、佐賀藩論とも呼ばれるもので、東西両方に中心地をおく、つまり西日本にくらべ、あらゆる面で不安定な東日本を治めることを目的として、東日本の中心地を江戸に、西日本の中心地を京都にするというものです。
さらに、この案においては、東京と京都の両方を鉄道で結ぶという計画も立てられていました。
この案が出されたのち、実際に江戸が東日本の中心地として適しているかどうかについて調査が行われました。
そして、1868年7月には江戸を東京とする、という内容の詔書が発行されます。
この詔書では、東日本・西日本を同視するということ、天皇は江戸で政治を見ること、したがって江戸を東京と呼ぶこと、などについて言及されました。
この詔書においては、東日本・西日本を同視する、ということからもわかるように、本格的に東京に遷都する方針は示されてはいなかったものの、その根底には首都を東京に移す意志が垣間見えます。
京都市民や保守派の反発を回避するため、まずは東西両都、という配慮がなされたのですね。
詔書が発せられた後、1968年9月に天皇は京都を出発し、東京に行幸しました。
天皇一行は10月には江戸城を訪れ、当日中に東京城との名称に改められました。
東京の市民は天皇の行幸を大いに祝い歓迎しました。
遷都はさまざまな条件を考えて決定されるものですが、市民の意向が大きな鍵を握っています。
実際に、東日本の中心である東京と、西日本の中心である京都のどちらに首都をおくか決めるときには、両都市の市民の人心について吟味さています。
一体、市民に対してどのような配慮が成され、東京への遷都が行われたのでしょうか。
<人心への配慮と漸次的な遷都>
東京への行幸後、天皇は京都へ戻る予定でしたが、三条実美はこれに反対していました。
というのも、行幸後すぐにでも京都に戻ってしまえば、関東の市民の信頼・支持を失いかねないと考えていたからです。
彼は、関東の人心と京都・大阪をはじめとした関西の人心について、慎重な分析を行なっています。
天皇の統治の恩恵を受けてきた京都・大阪の人々の失望と、徳川幕府の恩恵を受けてきた関東人の恨みを比較すると、たとえ京都・大阪の人心を失ったとしても、東京の人心を失わないかぎり、京都・大阪が廃れることはないと考えたのです。
実際に、彼は早期に京都へ戻ることをけん制する案を提出し、天皇が京都に帰る日は延期されました。
1968年12月には再び京都に戻ることになりましたが、東京市民の人心を配慮し、再度東京に戻ることを約束したのです。
1969年、1970年には、再び東京への行幸が行われます。
1969年の行幸時には、天皇は東京城に滞在することとなり、その際には東京城を皇城として称することが決定されました。
明治維新政府の最高官庁であった太政官も京都から東京に移され、この行幸以降は事実上、東京が天皇の活動の中心地となったのです。
このように、東西両都が唱えられながらも、政治の中心地はゆっくりと東京に移っていったため、京都市民の反発を招いてしまいました。
それに対し、新政府は、「天皇の行幸は頻繁に行われるものの、数千年も天皇みずからが拠点とした京都に対する思いは強いものであるから、安心していただきたい」、という趣旨の言葉で京都市民をなだめました。
このように新政府は、表向きは京都市民の反発を回避することを目的として、天皇は京都から離れない、というメッセージを伝えましたが、事実上は東京を首都として機能させる準備を進めたのです。
実際に、1871年までに京都の中央行政機関が消え、東京に首都としての機能がすべて集約されました。
<結局、なぜ明治天皇は東京に移ったの?>
さて、ここまで東京への遷都の流れを確認してきましたが、結局なぜ明治天皇は東京に移ったのでしょうか。
今まで見てきたように、東京への遷都は決定的なものではなく、段階的・漸次的なものでした。
首都も最初から東京に移す予定はなく、むしろ大阪への移転が提案されていたほどです。
ただ、今までお話しした東京遷都の流れを俯瞰してみると、遷都の強力な要因は前島密の江戸遷都論であることが推測されるのではないでしょうか。
明治新政府内でさまざまな案が挙がるうちに、前島の論が有力となり、京都・大阪市民のようすをうかがいながらも、東京に首都を移すメリットを見出して、ゆっくりと遷都が行われたのですね。
ちなみに、歴史上において、正式に「東京が首都だ」という宣言自体成されていないので、今でも東京はあくまでも″事実上の首都″と呼ぶのがふさわしい状態です。
天皇が座る玉座は今でも京都に置かれているので、形だけで判断すれば、本来は京都が首都のはずなのです。
【まとめ】
東京は正式な首都ではない(日本に正式な首都はない)、という事実を知って驚いたのではないでしょうか。
遷都の歴史的な背景を探ってみると、前島密の江戸遷都論が出された後に、東西両都の案が考えられ、京都・大阪そして江戸の市民の顔色をうかがいながら、政治の中心を慎重に東京へと移したことから、今なお日本の首都はあいまいなままなのですね。
この事実にたいして、皆さんはどう考えるでしょうか。
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