歴史好きにとって、京都旅行の最大の楽しみの一つは歴史観光です。
それに、歴史好きでなくとも日本人であるからには幕末との縁が深い地に訪れておきたいもの。
時代の転換点となる幕末は過ぎ去りし日々ではあるものの、今でも私たちに新鮮な驚きを与えるものです。
今回はこの斬新な時代、幕末を代表する歴史観光地の名所をご紹介します。
目次
京都で幕末観光をするなら?歴史好きにはたまらない名所を紹介!
歴史好きな方であれば、京都は何度訪れてもすべてを目にすることができないほど、歴史の残骸が散らばっていることをご存じでしょう。
幾数年もの歴史の層が積み重ねられてきた京の地は、あらゆる時代の文化・歴史が堆積して形作られた場所です。
その中でも、幕末は日本の現代人にとって比較的新しい記憶の中にあり、生々しさを肌で感じることのできる時代です。
そして京都には、日本人であれば是非とも訪れておきたい幕末歴史スポットが無数に存在するのです。
今回は幕末の歴史スポットに焦点を当て、歴史の旅へと出発しましょう。
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<壬生屯所旧跡>
不安定な時代であった幕末は、非常に興味深い出来事が絶え間なく続きました。
そして、その中でも特に面白いのは「新撰組」です。
大河ドラマでも扱われ、大きな反響を呼んだ新撰組は、最後まで江戸幕府側につき、反幕府勢力を取り締まった武装組織としてその名を知られていますよね。
この新撰組の発祥地、実は京都に現存しています。
京都市内に位置する壬生寺近くには「壬生屯所跡・壬生郷土八木邸」があり、幕末にはこの地が新撰組・近藤勇と土方歳三らの宿所となっていたのです。
八木家とは、京都・壬生村の壬生郷土の長老を務めていた家。
そして、この八木家の宿所となっていた壬生屯所旧跡の奥座敷では、新撰組三大内部抗争の一つであった芹沢鴨の暗殺事件の壮絶な舞台となった場所が現存します。
さらに、壬生屯所の境内には「壬生塚」があり、新撰組構成員の墓や局長であった近藤勇の胸像が設置されています。
壬生寺にある壬生塚には、志半ばで死んでいった新撰組11人の隊士が眠る。近藤勇の銅像や、芹沢鴨の墓もある。新撰組のファンには、必見の場所。 pic.twitter.com/KfwbeTkJ6R
— 歴史探偵家 髙橋伸幸 (@takahashinob) 2015年3月6日
こぼれ話ではございますが、現在八木家は「京都鶴屋」を営んでおり、八木家にちなんだ名物「屯所餅」をはじめとした美味しい和菓子が販売されています。
このお店では、水質に大変恵まれた、壬生の湧水を使用している美味しい和菓子が特徴的。
特に「屯所餅」はテレビ番組でも紹介されており、京野菜である「壬生菜」を含んだお餅です。
私も壬生を訪れた時に、このお餅をいただいたのですが、その味は今も忘れられません。
八木邸でいただいたお抹茶と屯所餅うんまかった…お話もおもしろかったのでゼヒ残り2週間にみんなに言ってもらいたい… pic.twitter.com/3YbMJ7ZlVr
— ちょめさん (@chomesan_gintam) 2018年9月3日
新撰組発祥の地を訪れたら、ついでに寄ってみてくださいね。
<西本願寺>
今朝の西本願寺さんです
秋の訪れですね
境内の上空は綺麗なうろこ雲😃皆さんにたくさんの喜びが
訪れますようにヾ(๑╹◡╹)ノ" pic.twitter.com/wiHCcsWyG0— モネ (@0213ikiru) 2018年9月5日
新撰組好きな方には、もう一つ、西本願寺をご紹介しましょう。
西本願寺は京都駅近くにある大変大きなお寺ですが、こちらも一時期新撰組の宿所として利用されていました。
先ほどご紹介したように、もともと新撰組の宿所は壬生・八木家でありました。
しかし、1864年の池田屋事件にて、新撰組が尊王攘夷派であった長州藩や土佐藩を襲撃した後は、その成果が認められ、新撰組に対する幕府からの支援は一段と厚くなりました。
以上、池田屋事件でした#西郷どん pic.twitter.com/Pn6bgAfJ01
— みずほ (@ha43zu) 2018年7月22日
それに伴って新撰組は増員することになり、200名を超える組織となったのです。
そのため旧来の壬生屯所では手狭になり、1865年、西本願寺を新たな屯所としたのでした。
ただ、西本願寺に移った新撰組は、寺院内で砲撃訓練を行なったり、仏教において禁忌とされた肉を持ち込んで食べたり、傍若無人な振る舞いを繰返しました。
このような背景から、今でも京都の人はあまり新撰組を良く思っていないようです。
私が京都の方とお話しした際も、「京都には新撰組嫌いな人が多い」との言葉をいただきました。
歴史の描き方は様々で、1人の人物を取り上げてみても、英雄にも悪人にもなります。
昔の京都の住民からすると、新撰組は物騒極まりなかったのでしょう。
ちなみに、西本願寺は織田信長と長い間対立関係にあり、抗争していたことでも知られているので、戦国時代好きな方も足を運んでみると良いでしょう。
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<同志社大学 今出川校>
到了同志社大学 今出川校园。#同志社大学 #今出川キャンパス に来ました。#大学巡り16 #第三大阪 #第三の旅 pic.twitter.com/pMOKio9v2U
— 中国語と日本語でつぶやきます (@koujinn_t) 2016年11月15日
京都御所のすぐ近く、同志社大学今出川校も幕末の動揺の一舞台として歴史に刻まれています。
坂本龍馬が立役者となった薩長同盟は、薩摩藩邸の一つであった「二本松の藩邸」において合意が成立しました。
そして実はこの「二本松の藩邸」の跡は、現在の同志社大学今出川校のキャンパス内に存在するのです。
それにしても、なぜ同志社大学内に「二本松の藩邸」の跡があるのでしょうか。
その理由は、同志社大学の創設者・新島襄と、旧二本松の藩邸跡を購入した山本覚馬の関係に求めることができます。
会津藩士・山本覚馬が生まれる
今日は何の日 文政11年1月11日『管見』~会津藩士・山本覚馬による新政府への建白書 | WEB歴史街道 https://t.co/1CXopldwUh @php_rekishiさんから#今日は何の日
— 歴史が好き🍀 (@naruseyanoken1) 2018年1月10日
新島襄の妻は、あの有名な新島八重であり、山本覚馬は八重の兄にあたります。
つまり、山本覚馬と新島襄は義理の兄弟の関係にあり、覚馬は襄にこの土地を譲ったのでした。
このように歴史の跡が深く刻まれた同志社大学は、歴史好きには何度訪れても飽きない場所です。
「二本松の藩邸」跡だけでなく、同志社大学の古い建築物も見どころなので、散策がてら校内を巡ってみましょう。
<京都御所>
そして、同志社大学今出川校に足を運んだら、そのまま京都御所に向かいましょう。
京都御所はあまりにも広大で、丸1日の時間が許されたとしても回り切れませんが、それほど多くの魅力を持つ場所でもあります。
京都御所は1790年に完成しましたが、現在の京都御所は1854年に焼失した後、江戸幕府によって1855年に再建されたものです。
「御所」と呼ばれるとおり、天皇の住まいであり、明治維新まで実際に利用されていました。
そして、この京都御所は「蛤御門の変」の激戦地であり、京都を追われた長州藩と会津・桑名藩兵が衝突した場所として知られています。
この戦いで長州藩が敗北し急進指導者を失った後は、会津藩・桑名藩・一橋慶喜らが京都政局を主導するようになったのです。
かつての激戦地であった蛤御門の梁には戦時の傷跡が残っており、今でも弾痕の跡を確認することが可能です。
蛤御門は京都御苑に入る9個の門の内の一つで、江戸時代末期にこの門周辺で長州藩と御所の警備にあたっていた会津、薩摩、桑名藩との間で激戦となった
これが世に言う禁門の変(蛤御門の変)です
門の梁には当時付いた鉄砲の弾痕らしきものが、今でも生々しく残っている🤔#京都御苑 #蛤御門 #京都迎賓館 pic.twitter.com/UgTjrPqKTe— Mickey51 (@Mickey51Ichi) 2018年8月15日
この場所を訪れた時に、ご自身の目で確認してみてくださいね。
<二条城>
二条城と聞いて思い浮かべるのは、誰もが知る日本史上の大転換、「大政奉還」ではないでしょうか。
1867年10月14日、15第将軍徳川慶喜は「従来之旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り」と記した上表を天皇に献上ました。
大政奉還のシーンのセットと実際の二条城の大広間。なかなかの再現度。 #西郷どん pic.twitter.com/18kjETWqxS
— ひぞっこ (@musicapiccolino) 2018年9月9日
この大政奉還が行なわれた場所が、二条城の二の丸御殿の中の「一の間・二の間」と呼ばれる部屋です。
この部屋は二の丸御殿の中でも最も格式の高い部屋であり、特に二の間は修学院離宮を創った後水尾天皇の行幸の際、能舞台の見どころとして利用されていたとも言われています。
この二の丸御殿を訪れた際には、障壁画にも注意しながら見学されることをおすすめします。
#攻城団 素敵な写真が投稿されました。>大広間(二の間から一の間) #二条城 https://t.co/SSZN4tXkIn pic.twitter.com/6AESvRhNx8
— 攻城団🏯公式 (@kojodanjp) 2018年8月13日
というのも、二の丸御殿の障壁画は、狩野派の巨匠・狩野探幽を中心とした一流絵師集団により制作されたものだからです。
1つ1つの障壁画の重厚さに触れたら、歴史の重みを感じざるを得ません。
そして驚くなかれ、二の丸御殿には3000面以上の障壁画が残っており、そのうち1016面が日本の重要文化財となっています。
二条城・二の丸御殿「遠侍二の間」の内部公開はあと二週間(8/6まで)なので気になってた方はお早めにー。 #京都 #二条城https://t.co/oxt7EZKgHx pic.twitter.com/hAmvFcR8Fe
— 攻城団🏯公式 (@kojodanjp) 2018年7月23日
日本人であるのなら、そして幕末の歴史探訪をするのであれば、二条城は最も外せない場所でしょう。
<酢屋>
つまりこの頃(慶応3年11月)、薩摩にとって龍馬は邪魔くさい存在なのです。龍馬の考えでは、慶喜を新政権に取り込もうとしています。だから「薩摩による龍馬暗殺説」がまことしやかに囁かれるのです。写真は龍馬が京都の宿として使っていた酢屋。 pic.twitter.com/VqikekPb00
— 幕末ジャーナリスト:幕末歴史研究 (@Ryomaky) 2015年11月3日
坂本龍馬といえば、「寺田屋」を思い浮かべるでしょう。
しかし「寺田屋」はあまりにも有名なので、ここでは「酢屋」をご紹介することにします。
「酢屋」は1721年に創業した材木商であり、幕末には「海援隊本部」が置かれていた場所です。
現在でも、「酢屋」は創業当時と同様、材木商を続けているそう。
坂本龍馬が過ごした海援隊京都本部酢屋。 pic.twitter.com/i6VYZWypEk
— ヲトーサン (@sygyq729) 2014年1月26日
そしてこの場所は坂本龍馬と縁の深い場所であり、彼が近江屋にて襲撃されるまで身を潜めていた隠れ家として知られています。
龍馬がこの場所に身を隠していた頃、「酢屋」は材木屋のみならず、高瀬川での運送業も営んでいたそうです。
この付近には各藩の藩邸が多く、その上「酢屋」の前まで高瀬舟が出入りしていて、伏見・大阪などとの連絡を取りやすかったため、坂本龍馬はこの地に留まったのだそうです。
彼は2階の1室に住んでおり、「才谷梅太郎」と名を変えていました。
当時龍馬が泊まっていたこの部屋は、現在ギャラリーとなっており、貴重な資料が展示されています。
三条木屋町からすぐ、北の道に、酢屋というみせがあります。坂本龍馬が京都で暮らしていたところです。ここに海援隊の本部を置いていたといわれています。
その北側の三条通ぞいに、池田屋があり、一つ南の筋には同じ土佐藩の後藤象二郎のすまいの碑、御池に武市半平太の家の碑が残されています。 pic.twitter.com/6J0fq76rwu— ホテル セントノーム京都 (@centnovum) 2018年7月28日
坂本龍馬に興味をお持ちの方は、是非訪れて行きたい場所ですね。
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【まとめ】
歴史は様々な観点から捉えることで、より立体的にまざまざとその姿が浮かび上がります。
本やドキュメンタリーなどを通して見るだけでは、まだ歴史の真髄に触れたとは言えません。
過去には決して戻れませんが、私たちができること、それは今でも残る当時の建築や美術、そして史料に触れ、その息吹に耳を澄ませることです。
その時代の残骸を注意深く観察することで、私たちは歴史を立体的に再構築することができるのです。
京都を旅行する際には、様々な歴史的遺物を観察し、歴史の広さと深さに身を任せてみてくださいね。
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