「少年よ、大志を抱け。」
この名言には、どのような意味が込められているのでしょう。
それは、この言葉に続く文句を知ることで分かります。
そして、この名言を遺したクラーク博士はどのような生涯を送ったのでしょうか。
歴史上の人物の生き様は、私たちに大きな学びを与えます。
今回はクラーク博士の名言の続き、彼の生涯を探ってみましょう。
目次
少年よ大志を抱けの続きは何?クラーク博士の生涯とは?
歴史に名を残した人物は、私たちが人生を進む上で大きなヒントを残してくれます。
前に進もうとしているからこそ、道に迷い壁にぶちあたります。
そんな時、一番の頼りになるのが自らの人生を切り開いた人物です。
そこで、今回は明治時代の新しい日本において、北海道の発展に寄与したクラーク博士の名言と生涯を見て行きましょう。
<「少年よ、大志を抱け。」その続きとは?>
「少年よ、大志を抱け」。
日本に住んでいるのであれば、この言葉を知る方は多いのではないでしょうか。
これは、クラーク博士の名言です。
彼は明治の幕開けの時期に、アメリカから札幌農学校に赴いた農学の教育者です。
日本政府の熱烈な要請を受け、1876年に札幌農学校の教頭として渡日した人物として知られていますよね。
冒頭のフレーズを聞いただけでも、奮い立つような思いが湧き上がります。
しかし、実はこの名言には続きがあります。
続きの言葉は、次の通りです。
Boys, be ambitious!
Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of that a man ought to be.
少年よ、大志を抱け
お金のためではなく、私欲のためでもなく、名声と言う名の空虚な志のためではない。
人はどうあるべきか、その道を成し遂げるために、大志を抱け。
これが、クラーク博士が言い残した名言の全文です。
人間としてどうあるべきか。
この問題に真摯に向き合い、考えて、行動してゆく野心を持つこと。
これが、博士が学生に伝えたかったことなのかもしれません。
この言葉は、札幌農学校の第一期生との別れの際に、クラーク博士が生徒に向けて贈った言葉として知られています。
しかし、この言葉は独り歩きしてしまった部分もあるよう。
北方史を研究し、クラーク博士の足跡について深く知る秋月俊幸氏は、博士自身名声や金銭にたいする欲を否定していない、との見方を提示しています。
また、クラーク博士は一流の知識人や歴史上の偉大な人物ではない、という点についても指摘されています。
さらに、そもそもこの言葉は1894年ごろに出た、幌農学校の学芸会機関誌「恵林」13号に掲載された文章の中に記されており、この名言が世に知れ渡ったのは17年経った後のことなのです。
そのため、この言葉が偉大な意味を持つようになったのは後世のことだとの見方もできるのですね。
しかし、この「少年よ、大志を抱け」という言葉は、北海道に住む人々の精神に強く訴えかけ、人生の指針となったのも事実です。
「学生諸君、さようなら、がんばって」という単純なニュアンスをもつ言葉として「Boys be ambitious」という言葉を残したとの説もありますが、いずれにせよ、この言葉のもつ力に心を動かされた日本人が多いのは確かなことです。
<クラーク博士とはどのような人物?>
さて、アメリカから札幌農学校に赴任し、後の時代に名言となる言葉を残したクラーク博士ですが、一体どのような経歴をもつ人物なのでしょうか。
クラーク博士は、1844年18歳でアメリカのアマースト大学に入学した後、神学校で化学を教えてからドイツへ留学し、現地の大学で博士号を取得しました。
博士号を取得した後には、わずか20代でアマースト大学の教授に抜擢されることになります。
教授職についてから、彼は化学を教えるだけでなく、動物学・植物学についても教えるようになりました。
次第にクラーク博士は、ドイツ留学期から注目していた農業教育の重要性を強調するようになり、1853年には化学と実践科学の学部長の職務に就きました。
この職務を終えた後には、マサチューセッツ農家大学の学長に就任しましたが、途中で南北戦争が勃発したために、学長の職務は中断することになります。
クラークが後に日本に来るきっかけとなったのは、同志社大学の創始者である新島襄による紹介です。
新島襄はクラークがアマースト大学で教鞭をとっていた時の日本人学生であり、任期中には彼からの紹介により、札幌農学校の教頭に抜擢されたのです。
実際に彼が北海道で教鞭を取ったのは、1年間だけ。
日本から帰国した後は、マサチューセッツ農科大学学長の職務を終えます。
アカデミックな職から離れた後には、鉱山会社を設立するなどの事業を立ち上げましたが、失敗に終わってしまいます。
晩年は病気にかかり、1886年に失意のうちに亡くなりました。
彼は死を迎える直前、人生を振り返り、札幌で過ごした8か月間が人生で最も輝かしい時代であった、と述べたそうです。
一体、クラーク博士は札幌農学校において、具体的にどのような功績を遺したのでしょう。
<クラーク博士と北海道>
クラーク博士は、札幌農学校の教頭となり、北海道の発展に寄与することになります。
では、具体的にクラーク博士の任務が、今の北海道にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
その疑問を解決するために、まずは札幌農学校が設置された理由について見てみましょう。
札幌農学校は1872年(明治5年)に開校された学校です。
開校の目的は北海道の開発に尽力する人材を育成することであり、学校内では農学・土木工学・測量・英文が教えられていました。
このような新設の学校にクラーク博士が教頭として招かれ、自然科学を英語で教えるようになったのです。
さらに、彼は自然科学だけではなく、キリスト教道徳教育についての指導も行いました。
キリスト教教育の一環としては特に聖書を用いた道徳教育に力を入れ、その優れた見識・人格・道徳観は学生たちに大きな影響を及ぼし、学問への関心を芽生えさせました。
実際に彼が教えた生徒の中には、キリスト教徒になる人もいたそうです。
クラークが直接教えたのは第一期生でしたが、第二期生である内村鑑三・新渡戸稲造らは熱心なキリスト教徒となりました。
彼らはクラーク博士から直接指導を受けたわけではありませんが、博士の教育精神はしっかりと受け継がれていたのですね。
その後、札幌農学校はさらなる発展を遂げて、今では国立の名門大学として知られる北海道大学となりました。
このように見て行くと、クラーク博士は現在の北海道大学の基盤を作り、新渡戸稲造や内村鑑三をはじめとして、直接的・間接的に日本の将来を担うことになった若者を育てたことが分かります。
前項で見てきたように、アカデミックな世界を抜け出た後には事業に失敗してしまったクラーク博士ですが、彼は教育者としては非常に優秀な人物だったのです。
<大志を抱くことについて>
「少年よ、大志を抱け。」
クラーク博士自身がこの言葉にどのような意味を込めていてのか、それは神のみぞ知ることです。
彼自身は単なる別れの挨拶として述べたつもりかもしれません。
しかし、この言葉の捉え方は人それぞれです。
クラーク博士の人生は決して順風満帆ではありませんでしたが、大志を抱いたことで、彼は日本で偉大な仕事を成し遂げたのではないでしょうか。
一面的な見方をしてしまうと、クラーク博士は大志を抱いていたにもかかわらず、事業に失敗してしまったことになります。
もし、そのままアカデミックな世界に身を置いていたら、大きな成功をおさめていたかもしれません。
しかし、視点を変えてみると、クラーク博士は自らの望みを行動に移した人物だったとも言えるでしょう。
上手く行くか、行かないか。
もちろん、人生においてものごとの結果は成功・失敗のどちらかに分類できてしまいます。
でも、成功であれ、失敗であれ、結果に至る途中で何か得るものがあるはずです。
それこそが、大志を抱くことの意義なのかもしれません。
何もしないよりも、何か行動に移してみること。
その結果、人は磨かれていくのでしょう。
【まとめ】
今回はクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」という名言の続きから、彼の生涯・生き方、北海道との関わりについて探ってみました。
名言についてはさまざまな捉え方ができますが、自分なりに解釈し、前に進むためのエンジンにする。
これが一番大切なことなのではないでしょうか。
歴史上に存在した人々の生き様には、自分の人生を躍進させるヒントがたくさん詰まっているのです。
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