日本の歴史に触れていれば、誰もが知る五稜郭ですが、どうして星型なのか。
その理由をすぐに答えられるでしょうか。
実は、あのかわいらしい星型には、抜かりない作戦が隠されているのです。
その作戦とは…?
裏に隠された見えぬ部分を楽しむのが、豊かな旅行の秘訣。
この記事では、五稜郭はなぜ星型なのか、ご一緒に探ってまいりましょう。
目次
五稜郭はなぜ星型なのか?可愛いだけじゃない本当の理由を紹介!
五稜郭はその形から、「一度はこんなすてきな形の史跡を訪ねてみたい」と興味を持ってしまいますよね。
かわいらしい形が魅力的な観光スポットなので、写真も撮りたいですよね。
でも、ただ単に星型のデザインにしたわけではないはず。
そう考えると、なぜこのような形に設計されたのか、余計に気になりますよね。
そこで、今回は五稜郭がなぜ星形なのか、その理由を探ってみましょう。
その前に、五稜郭が星型である理由を理解するために、そもそも五稜郭は何のためにつくられたのか知っておくことがポイントです。
五稜郭は一体何を目的として建設されたのでしょうか。
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<そもそも五稜郭は何のために?>
函館観光に行けば、必ずといっていいほど多くの人が訪れる場所が五稜郭です。
きれいな星型をした観光スポットは、いったい何のために作られたのか、とても不思議に思いませんか。
この五稜郭、端的に言ってしまうと「江戸時代末期に建てられた城郭」です。
この城郭は北方防備の目的でつくられたもの。
さらに、フランスの築城方式を導入して築造された、日本初の星形要塞なのですね。
五稜郭がつくられた当時、徳川幕府が200年以上にわたって実施していた鎖国の体制が、ペリー来航をきっかけに崩壊しつつありました。
アメリカの黒船が来航した後、幕府は日米和親条約を締結すると、伊豆の下田と蝦夷地の函館が開港されることになります。
そしてその際、函館の開港にそなえ、徳川幕府は市街地に箱館奉行を設置しました。(函館・箱館の2種類の表記がありますが、江戸時代までは、今の函館は箱館と表記されていました。)
しかし、箱館に上陸した外国人に役所の実態が見透かされやすい、港に近いため外国船からの標的にされやすい、といったデメリットが浮上しました。
そのため、幕府は箱館奉行を内陸に移転させることになります。
移転先は、当時柳野(やなぎの)と呼ばれていた場所、つまり今の五稜郭がある場所です。
このような背景があり、五稜郭は当時「柳野城」と呼ばれることもありました。
その後、1868年から1869年、五稜郭は、旧幕府軍と新政府軍の間で繰り広げられた、戊辰戦争の最後の一幕である箱館戦争の舞台となります。
箱館戦争と五稜郭の歴史については、次の記事で詳しくご紹介しますね。
さらに時を経て、大正3年(1914年)には函館市民の請願を受け、五稜郭は五稜郭公園として一般に公開されます。
大正11年(1922年)には国指定史跡に登録され、さらに、1952年には学術上の価値が特に高く、日本の象徴ともいえるものとして、北海道唯一の特別史跡に指定されています。
現在は、観光スポットとして全国から多くの観光客が訪れるだけでなく、函館市民の憩いの場として親しまれる公園となりました。
毎年4月下旬ごろには、ソメイヨシノが咲き誇り、12月から2月一杯は五稜郭の堀1.8kmをイルミネーションで飾るイベントが行われ、人々の注目を集めています。
五稜郭のすぐ近くには五稜郭タワーもあり、展望台から眺める美しい星型には目を奪われます。
ところで、五稜郭はなぜ星型なのでしょうか。
いよいよ今回の本題に入っていきましょう。
<五稜郭はなぜ星形なの?>
かわいらしい星型をした五稜郭ですが、その裏には守備のための綿密な仕組みが隠されています。
それは、5つの突起の部分に大砲を設置することで、死角を作らないという仕組みです。
5つもの大砲を置くことで、どこかが敵にやられてしまっても、他の大砲で攻撃し続けられるのですね。
星形を形成する、外に付きだした稜堡を5つ配置することで、守備を行うときには相互にカバーし合い、攻撃するときには死角を作らないような設計になっているのですね。
このような要塞は星形要塞と呼ばれ、火砲の普及がきっかけとなり、近世のヨーロッパで広まりました。
五稜郭をつくる際に参考にしたのは、16世紀にフランスで考案された稜堡式城郭でした。
しかし、もともとの星形要塞は、15世紀半ば以降にイタリアで発生した築城方式です。
本来はイタリアで考案されたものですが、15世紀末から16世紀初めにかけてイタリア半島からフランス軍が侵入したことで、星形要塞はさらなる改良を加えられていったのですね。
五稜郭を設計した人物は、西洋兵学を学んでいた武田斐三郎と呼ばれる人物でした。
この人物が、火器が主流になった戦いに適応した城を築くために、フランスの稜堡式城郭を設計したのです。
このような秘密が隠された五稜郭には、ほかにも敵からの侵入を防ぐための仕組みがいくつか見られます。
次の項目ではこの点について確認してみましょう。
<五稜郭に隠された防護の仕組みとは?>
五稜郭には星型であるという点のほかにも、別の防護の仕組みが隠されています。
その一つとして挙げられるのが、「身隠土塁」。
これは別名「一文字土塁」とも呼ばれているもので、幅はおよそ30m、高さは6mにおよびます。
この土塁を築くメリットは2つ。
一つは、「見隠」という名前のとおり、城郭内部の様子がわからないというメリット、もう一方は侵入する敵を分散させることができるというメリットです。
この土塁は、銃や大砲などの火器を使用した実戦にはもっとも適応していたため、五稜郭を築造する際には非常に重視されていました。
そして、五稜郭がもつ、もう一つの防護の仕組みは、5つの出っ張りの外に作られた半月堡です。
これは、人馬が出てくるのを直接見られないようにする目的や、侵入する敵の兵を側面攻撃するための効果がある画期的な仕組みです。
でも、よく考えてみてください。
どうして半月堡は一つしかないのだろうか、と不思議に思いませんか。
実は、五稜郭は未完成なのです。
本当は半月堡を5つつくる予定でした。
ところが、建設している途中で財政難に陥ってしまい、一部計画を変更せざるを得なくなってしまい、今の状態に落ち着きました。
実際に、「五稜郭初年度設計計画図」を見てみると、5つの半月堡を設置する計画が立てられていたことがわかります。
また、五稜郭には「刎出し」と呼ばれる珍しい遺構が残されています。
人吉城の #石やばぁ !
1枚目の石は、まだ算木積みが初歩なのに、幕末頃に築かれた刎出しと近い位置にあるところがキュンーヾ(●´∇`●)ノ 苔むし方もかなりドストライク!!! pic.twitter.com/TnWIc5rfh2— いなもと かおり/ちょめ (@tyome_no_heya) 2017年10月14日
これは、石段の一番上の段から二番目の石を外側にせり出させたものであり、敵の侵入を防ぐ効果をもつものです。
この技術も幕末に欧米から導入したものであり、全国的にも非常に珍しい遺構として知られているのですね。
五稜郭の他の例としては、熊本県の人吉城や東京都の、長野県のが挙げられます。
このように、五稜郭には敵からの侵入を防ぎ、攻撃を有利にするための工夫が凝らされていたのですね。
日本・西洋両方の築城技術が入り混じった城郭が、学術的な価値を認められていることに頷けます。
<五稜郭の星型を眺めるなら、あの場所に行こう!>
さて、星型が美しく、観光スポットとしても人気の高い五稜郭は、高い場所から眺めてみたいですよね。
北海道旅行で五稜郭に訪れようと計画しているなら、五稜郭タワーの展望台に足を運んでみましょう。
もともと、このタワーは五稜郭の築城100年を記念して1964年に建てられました。
2006年には現在のタワーが昔のタワーに代わって建設されています。
現在のタワーの高さは107mで、展望台からは函館山や津軽海峡、そして横津連峰などの雄大な景色を眺められます。
さらに、展望台では景色を眺められるだけではなく、五稜郭の歴史を学べる、五稜郭歴史回廊があります。
五稜郭公園に入場するまえにタワーを訪れれば、知識が増え、観光も楽しくなりますよ。
展望台は1階と2階の2つがあります。
1階ではシースルーフロアのガラス床をとおして展望台の真下を眺めることができます。
また、ショッピングを楽しめる展望売店や、カフェやソフトクリームを堪能できるカフェスタンドも設置されているので、観光に疲れた時には、素晴らしい眺めを見ながらほっと一息つけますよ。
そして、展望2階には「五稜郭歴史回廊」が設置されており、模型やグラフィック展示を見ながら歴史を学ぶことができます。
五稜郭タワーをうまく利用すれば、五稜郭探訪がもっと充実したものになりそうでうね。
【まとめ】
函館の五稜郭は星型でかわいい、という印象を持っていたかもしれません。
でも、実はこの記事でお話ししたように、五稜郭の特殊な形は敵から身を守り、攻撃の効果を高めるための強力な策戦だったのです。
旅行では、建築などに着目しても新しい知識が増え、見識が広まりますよ。
最後に、今回の記事に関連して、五稜郭を訪れたときのご感想・体験談などがございましたら、お気軽にコメントください。
皆さんからのコメントが集まることで、お互い知識が増え、旅行が意義深いものとなりますよ。
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