どの史跡も、一番のドラマとなる出来事を秘めています。
その歴史的な出来事を掘り出す作業は、今ここに存在する史跡だけでなく、その史跡の奥深い部分を見ることです。
目に見えないものを見るから、歴史は面白い。
函館五稜郭では、まさにそんな体験ができます。
今回は、五稜郭と切り離せない出来事、箱館戦争について探ってみましょう。
目次
五稜郭と箱館戦争の歴史とは?知識を身に付け五稜郭祭りを楽しもう!
「五稜郭はなぜ星型なのか?可愛いだけじゃない本当の理由を紹介!」の記事でご紹介した五稜郭は、幕府により北方防備を目的としてつくられた要塞です。
かつて、この五稜郭の歴史を語るうえで、外すことのできない戦争がありました。
それが、箱館戦争です。
この戦争が、五稜郭のドラマを象徴するといっても過言ではありません。
いったい五稜郭にはどのようなドラマが隠されているのでしょうか。
その歴史を紐解くために、この記事では箱館戦争について探ってみましょう。
<まずはこれ! 五稜郭の歴史をざっと確認しよう>
今の五稜郭は、幕末に北方防備の目的で建造されました。
ペリー来航後、伊豆の下田と蝦夷地の箱館の開港が決定したことを受けて、幕府は箱館奉行所を設置することになります。
箱館奉行所は、西洋の学問を教授する学問所である「諸術調所」の開設や、家畜の飼育の推奨、陶器生産や造船などの新しい産業を促進するなどの役割をもつ機関でした。
当時、箱館奉行所は市街地に設置されていましたが、港に近いために外国人に役所の実態を見透かされやすい、外国船の標的にされやすい、などといったデメリットを抱えていました。
そのため、箱館奉行所は1864年に今の場所に移転されます。
これが今の五稜郭なのですね。
この場所はかつて柳野と呼ばれていたため、当時五稜郭は「柳野城」とも呼ばれていました。
柳野への移転からわずか4年後には箱館戦争が勃発し、五稜郭はこの戦いの舞台となります。
今回の本題である箱館戦争については、早速次の項目で詳しく見ていきますね。
時を経て、五稜郭は1914年に五稜郭公園として一般公開されるようになり、1922年には国指定史跡に登録され、1952年には北海道唯一の特別史跡に指定されました。
このような経緯があり、今現在の人気観光スポット・五稜郭が存在するのです。
それでは、五稜郭の歴史を語るうえで外せない、箱館戦争との関係を確認してみましょう。
<箱館戦争は戊辰戦争の最後の戦い!>
幕末は開国を巡って倒幕の動きが激しくなります。
結局、幕府は大政奉還を行ない、明治維新をむかえます。
ところが、1868年から1869年にかけて、倒幕派と幕府派の間で戊辰戦争が繰り広げられることになります。
ここで、「徳川慶喜は大政奉還を行って幕府は消えたはずなのに、どうしてその後も倒幕派と幕府派で戦いが繰り広げられたのだろう」と疑問に思いますよね。
実は、大政奉還は徳川慶喜の作戦でした。
彼は戦争で被害を受けることを回避するために、自分から降伏することで、明治新政府においても自分の地位を確保しようと考えていたのですね。
たとえ大政奉還を行い、幕府がなくなってしまっても、その勢力は強大であったため、新政府内で高い地位を維持することは可能だったのです。
しかし、明治新政府は慶喜の策略を見抜いており、王政復古の大号令を発表し、天皇を中心とした体制づくりを目指します。
これにより、慶喜は今までの立場を完全に失ってしまったのです。
言うまでもなく旧幕府側は激怒し、鳥羽・伏見の戦いが起りました。
これが、戊辰戦争の幕開けです。
戊辰戦争の詳細は割愛しますが、この一連の戦争は箱館戦争で幕を閉じることになります。
それでは、いよいよ箱館戦争そのものについて見て行きましょう。
<箱館戦争は最初、幕府軍側に有利だった!?>
倒幕派と幕府派の間で繰り広げられた戊辰戦争の舞台は、東北を経て最終的には箱館の地に移りました。
箱館戦争は、榎本武揚が率いた旧幕府脱走軍艦隊が1868年10月20日に蝦夷地の鷲ノ木に到着したときから始まります。
ここで少し、榎本武揚という人物について確認してみましょう。
彼は幕臣の子どもとして江戸の地に生まれ、若い頃から学問を身に付けます。
実際に昌平坂学問所に学び、アメリカ留学を終えたジョン万次郎から英語・洋楽を習い、20歳のときには、長崎海軍伝習所にて、勝海舟から軍艦の操縦や航海術などを教わるという優れた経歴の持ち主です。
さらに、1962年にはオランダに留学し、帰国後は幕府の海軍副総裁の職に就きます。
箱館戦争では五稜郭に立てこもり、北海道を開拓して新たな国を建国しようと企てましたが、倒幕派の攻撃を受け、降伏することになります。
しかし、その後は明治政府の要人として、北海道開拓に力を注ぐことになります。
実際、1875年に締結された日本・ロシア間の樺太・千島交換条約は、彼の活躍によるものでした。
幕府派であったにもかかわらず、明治新政府の重要人物として重用された点が面白いですよね。
さて、蝦夷地に上陸した旧幕府脱走軍は、いくつかの部隊に分かれて五稜郭をめざし、6日後の10月26日には無人であった五稜郭を占領します。
大政奉還後、五稜郭は明治政府の管理下に置かれ、「箱館府」という名称の行政府でしたが、この時から、五稜郭は榎本武揚を中心とした旧幕臣の臨時政府の拠点として機能し始めました。
ここからしばらくの間は、旧幕府脱走軍が松前や江差などを次々と占領し、勢力を強めていくことになります。
<戦況の転換へ>
しかしながら、旧幕府脱走軍の勢いも、翌年1869年の4月になると下火になります。
というのも、倒幕派の軍が乙部に上陸して反撃を始めたためです。
この反撃によって、旧幕府脱走軍は最大の戦力であった開陽を失い、戦況は脱走軍にとって不利なものへと変わってしまいます。
翌月5月11日には明治政府軍が箱館の総攻撃を開始することになり、脱走軍側の一番大切な砦であった弁天岬台場が、ほぼ壊滅状態となります。
このような状況に直面し、脱走軍の救援に向かったのが土方歳三でした。
しかし、彼は救援に向かう途中、異国橋あたりにて銃で撃たれ、戦死してしまいます。
その一方、箱館港内においても幕府派と倒幕派の軍艦同士が火花を散らして戦いを繰り広げていました。
こちらでも、最初は脱走軍艦が倒幕派の軍艦を沈没させ、優位に立っていましたが、途中から倒幕派が巻き返し、箱館港内においても倒幕派が優勢となりました。
このように、箱館各地で幕府派と倒幕派は戦闘を繰り広げ、幕府派の拠点は次々と陥落していったのですね。
最終的に、箱館奉行所は港から倒幕派の艦砲射撃を受けて、幕府派は五稜郭を明け渡すことになり、箱館戦争は終結しました。
箱館戦争が終結した後には、箱館府が蝦夷地の統治・開拓を進める予定でしたが、明治政府が新たに開拓使を設置したことにより、箱館府は廃止されました。
やがて、1871年には開拓使は札幌に移転し、箱館奉行所の建物は取り壊され、五稜郭は陸軍省の管理下におかれるようになりました。
<五稜郭祭>
箱館戦争についての知識があれば、それにちなんだイベントも十分楽しめてしまいます。
そのイベントとは、五稜郭祭です。
五稜郭祭は2日間かけて行なわれる祭であり、1970年から始まったお祭りです。
戊辰戦争の最後の舞台となった五稜郭の歴史を今に伝えることがその目的。
お祭りの内容としては、1日目には幕府軍と倒幕軍に仮装した人たちを目にすることができます。
彼らは箱館戦争ゆかりの地を練り歩き、戦没した人々の慰霊を行うのですね。
また、当日には「土方歳三コンテスト全国大会」も行われ、新撰組の土方歳三を演じるシュールなコンテストを楽しむことができますよ。
「土方歳三コンテスト全国大会」について、2017年度は優勝者に10万円が贈答されました。
準優勝・箱館五稜郭祭賞にも記念品が贈られるので、仮装好きな人には楽しいイベントになりますよ。
16歳以上であれば、男女関係なく参加できるので、旅程と重なる場合には、参加してみても面白いかもしれません。
また、2日目には維新行列が行われ、官軍の仮装をした人々を目にすることができます。
さらに、五稜郭明け渡しをイメージした開城セレモニーも行われ、まるで過去にタイムスリップしてしまったかのようなイベントを満喫できますよ。
【まとめ】
「歴史的な史跡のどこが面白いのかわからない」、と思っていませんか?
でも、中学や高校で歴史を勉強していると、「なんとなく好きだな」と思える人物に出会うのではないでしょうか。
今回のテーマ・箱館戦争でも、榎本武揚や土方歳三が登場しました。
ちょっと歴史をかじって、好きな人物を見つけることで、いつのまにか史跡めぐりが楽しくなってしまいます。
歴史の知識が身に付くだけでなく、旅行も楽しくなってしまうので、好きな偉人を見つけてみてはいかがでしょうか。
最後に、今回のテーマに関連して、「箱館戦争については、この本が面白い」、「五稜郭祭ではここが見どころだった」などの体験談・口コミなどがございましたら、お気軽にコメントくださいね。
皆さんで情報を共有して、ご一緒に旅行をもっと楽しいものにしてまいりましょう。
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