「五稜郭といえば、榎本武揚でしょう?」
一通り日本史を学んだら、箱館戦争での印象が強いかもしれません。
でも、彼の面白さは明治新政府軍に降伏した後にこそ見出せます。
今回は、幕末から20世紀の激動の時代を生き抜いた榎本武揚の人生をのぞきましょう。
函館五稜郭に訪れるなら、榎本武揚を知っておくと観光を数十倍楽しめますよ。
目次
榎本武揚とは?明治新政府で活躍できた理由は○○にあった!
View this post on Instagram
旧幕府軍側として箱館戦争で戦い、敗北したものの、歴史上で重要な人物として知られる榎本武揚。
箱館戦争以後も彼が明治新政府で重用されたことは有名な話です。
でも、どうして彼は殺されず、敵であった新政府側で大々的な活躍を許されたのか。
彼はどのような役職につき、活躍したのか。
これらについて知ることで、彼と彼に関わりのある人々のつながりが見え、歴史を人とのつながりの観点から楽しめます。
そこで、この記事では榎本武揚の生い立ちから晩年にいたるまで、上の2つの疑問を中心にご紹介しますね。
<榎本武揚の生い立ち>
最初に、榎本武揚の生い立ちについて確認してみましょう。
彼は、1836年に現在の東京都台東区の浅草橋付近で、榎本武規の次男として生まれました。
彼の生まれた家は幕臣の家系で、父親の武規は日本全土を測量し、初めての日本全図を作った伊能忠敬の元弟子でした。
このような家庭に生まれたため、武揚は11歳の時から昌平坂学問所に学びます。
昌平坂学問所は、1790年に設立された江戸幕府が直接管理する教育機関・施設です。
昌平坂学問所はもともと儒学の私塾であった学校です。
しかし、武揚はこの学問所を出たのち、20歳のころには長崎海軍伝習所に移り、オランダ軍人の教師から蘭学・航海術などを教わりました。
海軍伝習所を卒業したあとには江戸の築地軍艦所教授として活動するかたわら、ジョン万次郎の私塾にて英語を学びました。
1962年(当時26歳)のときにはオランダに渡り、5年間の留学を体験します。
このオランダ留学で、彼は航海術・像占術・国際法を学びました。
当初、彼は幕府によりアメリカへ留学させられることになっていましたが、南北戦争の影響でアメリカ側に断られてしまったため、留学先がオランダに変更となったのですね。
このころ、江戸幕府は外国へ留学生を派遣するようになりました。
というのも、ペリー提督の黒船が来航して以来、西洋の学術や技術を取り入れることが急務だったからです。
このような背景から、榎本武揚はオランダに派遣されたのですね。
1867年には横浜港にもどり、帰国後は幕府の命により海軍副総裁の職に就きました。
<榎本武揚と函館戦争>
榎本武揚は1867年に日本に帰国しましたが、このころはちょうど倒幕の動きが著しい時期でした。
この年の10月には徳川慶喜が大政奉還を行い、1868年の1月には王政復古の宣言によって新政府が樹立します。
徳川慶喜は自ら大政奉還を行うことで政権を明治天皇に返上しましたが、旧幕府側と新政府側は対立し、戊辰戦争が起ります。
なぜ、江戸幕府は幕を閉じたのに、旧幕府側と新政府側の対立が生じたのか。
実は、旧幕府側は天皇を頂点とした明治の新政権に徳川家も参加できると考えたうえで、大政奉還を行いました。
しかし、ふたを開けてみると明治新政府は王政復古の大号令で幕府側の影響力を排除することを試みて、徳川慶喜に役職の辞任と、領地の返上を命じたのです。
明治政府のこのような対応が、旧幕府側の怒りを買い、京都の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発したのですね。
1868年にこの戦争が起きたとき、榎本武揚は32歳でした。
そして、武揚の名を一躍有名にした出来事が、戊辰戦争最後の戦い、箱館戦争です。
この戦争で、榎本武揚は土方歳三らとともに箱館の五稜郭に立てこもることになります。
(五稜郭の歴史については、「五稜郭と箱館戦争の歴史とは?知識を身に付け五稜郭祭りを楽しもう!」、土方歳三については「土方歳三はなぜ五稜郭まで戦い続けたのか?降伏しなかった理由は何?」をご参照くださいね。)
武揚は1868年の10月26日に箱館五稜郭を占領し、続いて松前城を攻略、12月には「蝦夷共和国」を建国して総裁の地位に就きます。
松前城を落としたのちには、江差に進軍した土方歳三の軍隊を援護するため、開陽丸を向かわせます。
しかし、11月15日の夜には天候が急変して座礁。
この様子を目の当たりにした榎本武揚と土方歳三は、そばに生えていた松の木を叩き、嘆き悲しんだと伝えられています。
ちなみに、この松は今でも「嘆きの松」として残されているので、函館を訪れるときには足を運んでみると、当時の光景をありありと思い浮かべられますよ。
その後、戦局は新政府側が優勢となり、箱館戦争は旧幕府側の敗北に終わります。
1869年5月15日には弁天台場が降伏し、17日には榎本を代表する旧幕府軍の幹部が黒田清隆と会見して降伏条約を取り決め、翌日には屯所にして降伏したのです。
降伏後、武揚は東京へ送られ獄中生活を送ることになります。
<なぜ、敵であった明治新政府にむかえ入れられたの?>
榎本武揚が獄中に入れられている最中、明治新政府内では彼の処置について話し合われていました。
木戸孝允ら長州勢は武揚にたいして厳罰を求めましたが、その一方で黒田清隆や福沢諭吉は武揚の助命を主張しています。
明治新政府の敵である榎本武揚が受け入れられない、という態度をとるのは当然のこと。
しかし、黒田清隆はなぜ榎本を助命したのでしょう。
その理由は、武揚が肌身離さず持っていたある一冊の書物に求められます。
その書物とは、フランス人オルトランが記した「万国海律全書」です。
降伏間際、武揚はこの書物を戦災から守るために、新政府軍の参謀・黒田了介(のち清隆)に送りました。
この「万国海律全書」に記されていた注釈の多さに黒田は驚愕し、武揚の才能に感服したといいます。
「榎本武揚は能力のある人物である」と認識した黒田は、この人物を殺してはならないとの考えたのです。
なお、武揚が投獄されている最中に、福沢諭吉はこの書物の翻訳を頼まれています。
彼はこの本の4∼5頁のみ翻訳しましたが、本書は講義録であるため、講義を聴いた本人でなければその内容を真に知ることはできないと述べ、武揚の助命を暗に求めていたのです。
このような状況のなか、黒田は新政府軍を説得し、ついに榎本武揚の助命が実現します。
命を救われた榎本武揚は、3年ほどの牢獄暮らしを終え、北海道開拓使の官吏の職を得ました。
このときから、駐ロシア大使、文部大臣、農商務大臣、逓信大臣、海軍卿といった重要な地位に就くことになるのです。
1874年の6月には、駐ロシア特命全権公使としてサンクトペテルブルクに赴任し、1878年には樺太・千島交換条約を締結するという大きな役割を果たします。
樺太・千島交換条約は、ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定めた条約。
明治時代、日本人とロシア人の混在の地であった樺太では、両者の紛争や事件が絶ませんでした。
このような事態に対処するため、樺太問題を巡り、日本国内では副島種臣の意見と黒田清隆の意見に分かれました。
副島の意見は、樺太を南北に分け、ロシア人と日本人の居住地を区別するというもの。
一方、黒田の意見は樺太を放棄するというものでした。
結局、黒田の意見が採用され、榎本武揚は樺太全権をロシア領、ウルップ島以北の島を日本が領有するなどの樺太放棄論にもとづいた訓令を携え、ロシア・サンクトペテルブルクに向かいました。
その後、榎本はロシアの外務省アジア局長であったスツレモーホフと交渉を進めて、樺太千島交換条約を結んだのですね。
榎本武揚は箱館戦争で五稜郭に立てこもったことで有名ですが、明治政府で重用され、重要な条約の締結交渉に挑んだ人物でもあったのです。
これに関連して、興味があれば北方領土についての記事「北方領土問題をわかりやすく解説!ロシアやアメリカ、中国の立場は?」をご参照くださいね。
時を経て、1890年(明治23年)には子爵の地位に就き、大日本帝国憲法発布式においては儀典掛長を務めました。
さらに、武揚は北海道開拓に従事していた経験を活かして、現在の東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科を創設し、学長となりました。
教育の分野においても、近代日本の形成に力を注いでいたのですね。
その後、彼は農相大臣として活躍し、日清戦争時には歴代の農相の中でも最長を記録した大臣となりました。
彼は1897年に足尾鉱毒事件の責任を取り、辞職することになります。
このようにして、榎本武揚は政界から去って行ったのでした。
彼は1908年10月26日に73歳で逝去し、東京都の吉祥寺に眠ることとなりました。
【まとめ】
箱館戦争でその名を知られる榎本武揚ですが、明治政府での活躍は知っていたでしょうか。
戊辰戦争では旧幕府側であった彼が、かつて敵であった明治新政府にて、これほどまで活躍していたのですね。
特に、彼の命を救ったのが、フランス人オルトランが記した「万国海律全書」であることはとても興味深いエピソードです。
榎本武揚がこの本を持ち合わせていなければ、彼の命はなかったのだと思うと不思議です。
自分の能力は思いがけない場面で役に立つのかもしれません。
最後に、今回の記事に関連して「榎本武揚のこんなエピソードが面白い」、「こんな本がおすすめ」などのコメントがあれば、お気軽にお知らせください。
みなさんのコメントで、歴史を楽しく勉強し、女子旅を盛り上げていきましょう。
関連記事:北海道はなぜ県ではなく道なのか?松浦武四郎が北海道の名付け親