北海道はなぜ県ではなく道なのでしょうか。
日本人であれば誰でも知っている有名な旅行先、北海道。
それにもかかわらず、名前の由来を答えられる人は多くないのではないでしょうか。
北海道が道である理由は、その歴史を探ってゆくことで知ることができます。
この記事では、北海道が県ではなく道である歴史について見て行きましょう。
目次
北海道はなぜ県ではなく道なのか?松浦武四郎が北海道の名付け親
「北海道はどうして北海県と呼ばないのだろう。」
このような素朴な疑問を持ったことはあるでしょうか。
確かに47都道府県の中で、「道」がついているのは北海道だけです。
北海道(そして沖縄)以外の都府県は、もともと日本の領土だったので、北海道だけ呼び名が異なることに、なんとなく納得できるかもしれません。
でも、具体的になぜ北海道だけ「道」がつくのでしょうか。
今回はこの謎に迫るべく、北海道という名前の由来について探ってまいりましょう。
その前に、まず都・道・府・県の違いについても知っておきたいところ。
最初は、この違いについて見て行きますね。
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<都・道・府・県はそれぞれどんな意味をもつの?>
日本には1都1道2府43県の47都道府県がありますが、なぜすべて県で統一されていないのでしょうか。
北海道だけなぜ道がつくのか探る前に、まず都・道・府・県の違いについて考えてみますね。
最初は都について。
都は、域内に市町村の他に特別区を抱えている点で、道・府・県とは異なります。
もともと都は1943年の太平洋戦争中に、東京市と東京府を統合してできたものです。
そのために特別区を抱えているのですね。
その一方で、明治政府が発足した当時の直轄地が現在の府県に組み込まれました。
このように府・県はどちらも元直轄地なのですが、根本的な違いは重要度の違いです。
直轄地であった場所の中でも、明治政府にとって特に重要だと考えられた場所が府に、その他の直轄地が県になったのです。
また、府になったのは、あくまでも明治政府が大切だと考えた直轄地だったので、かならずしも江戸幕府が重要視していた地域がそのまま府になったわけではありません。
都・府・県についてはこのような違いがあるのですね。
そして道についても気になりますね。
早速、なぜ北海道が道と呼ばれるようになったのか、その経緯を確認しながら探ってみましょう。
<いつから北海道って呼ばれるようになったの?>
そもそも「北海道」という名前が付けられるようになったのはいつなのでしょうか。
北海道という名前がつく前、この地は「蝦夷(えぞ)」と呼ばれていました。
蝦夷とは、古代日本において、北関東から東北・北海道にかけて居住し、政治的・文化的に朝廷に従わなかった人々のことを意味しました。
明治政府により、蝦夷から北海道へと正式に名前が変更されたのは、1869年(明治2年)のことでした。
ちょうどこの年には、北海道全体を管轄するために開拓使という機関が設置されました。
開拓使とは、北方を開拓するために明治2年から明治15年まで置かれた官庁のことです。
ロシアに対する危機感を抱いた日本が設置した、開拓を目的とした地方行政機関だったのですね。
そして、明治政府に採用された、北海道という地名の名づけ親は、松浦武四郎という人物です。
これ、この写真解説では左側の「広沢真臣」とされている人物は「松浦 武四郎」の息子あたりじゃないかな?
小田為綱とは20歳ぐらいの年の差があるから、本人では無い気がする。
顔の雰囲気は似てると思うんだけど、どうかな? pic.twitter.com/PUnbxm1gds— 宇部 大道 (@DaidoBe) 2018年4月29日
松浦武四郎は、江戸時代の終わりから明治にかけて活躍していた探検家であり、蝦夷地についての詳細な記録を多く残した人物です。
また、彼は6回に渡る蝦夷地の探検をとおして、地元に住むアイヌの人々との交流を深め、彼らが蝦夷地で安心して暮らせるよう、その文化や生活を伝えることに尽力した人としても知られています。
松浦は蝦夷地に関する知識が豊富であったために、蝦夷地に精通した第一人者として明治政府の一員となり、開拓使の役人に抜擢されました。
このような経緯があり、蝦夷の地に名前をつける際、彼がさまざまな案を挙げたのですね。
彼は明治2年に道名に関する意見書の中で、候補として「日高見」、「北加伊」、「海北」、「海島」、「東北」、「千島」の6つの候補を挙げました。
これらの候補の中から選ばれたのが、「北加伊」です。
″加伊″というのは、アイヌが自らのことを″加伊″として呼んだことに由来するという説や、「蝦夷」を音読みしたことに由来するという説があります。
また、松浦は芸術家としての顔ももっていたため、彼の雅号であった「北海道人」という名称が最終的に道名になったとも説明できます。
このような経緯があり、かつての蝦夷地は北海道と呼ばれるようになったのです。
<なぜ道なのか?>
松浦武四郎が北海道の名付け親であることはわかりましたが、彼が候補を挙げた時点では、まだ「北加伊(北海)」であり、「道」の文字はついていませんでした。
日本には47都道府県がありますが、なぜ北海道だけ「道」なのでしょうか。
その背景には、江戸時代の統治法式があります。
都・府・県の場合は、江戸時代に存在した「藩」が廃藩置県によってできた「県」を統合したものですが、北海道はもともと「藩」ではありませんでしたよね。
かつての蝦夷地は幕府の支配体制が確立していない地域でした。
確かに、この地には松前藩がおかれていましたが、その支配地域はほんのわずかであり、蝦夷の地に幕府の大使館をおいているようなものに過ぎませんでした。
実際、松前藩は現在の北海道松前郡松前町に拠点をおいており、松前半島が支配領域となっていました。
しかし、明治時代になり、西洋諸国がもっていた″自国の領土″という概念を取り込まざるを得なくなった日本は、蝦夷の地を正式に日本の領土として取り込む必要性がある、と判断するようになったのです。
このような経緯から、日本の政府は北海道に開拓使をおいて開拓を行います。
開拓を行った後には、他の地域と同じように行政を敷いて統治体制を整えようと、函館県・根室県・札幌県の3県を設置しました。
しかし、もともと支配体制の整っていないこの土地に、いきなり3県を設けて他の地域と同じように統治することで、混乱が生じたのです。
たとえば、官吏の数が増えてしまったり、開拓の成果が上がらなかったりなどの不具合が生じてしまいました。
このような理由から、新しく設置された3県は廃止されます。
結局、かつて蝦夷地と呼ばれていた地域は、全体を1つの地方機関でまとめて管轄すると良いという結論に落ち着き、1886年には北海道庁が設置されました。
県が廃止されたので、奈良時代の五畿七道(山城、摂津、河内、大和、和泉の5国、そして東海道、西海道、南海道、山陰道、山陽道、東山道、北陸道の7道)を参考にして「道」がつけられたのだそうです。
<北海道には区分がある>
よく「君の県について教えて」的な感じで「北海道について」って話になるけど
道民から見た北海道の認識ってこんな感じになってるからこの市区分けが本州の県くらいの感覚になってるのでどっか指定するとやりやすいっすよ pic.twitter.com/FFSbx8rV3B— 海老 (@ebitotto) 2016年9月1日
北海道はそれひとつで、他の県と同じように一つのまとまりができていますが、非常に広大な土地であるため、さらにいくつかの区分に分けられています。
区分の仕方は幾通りも存在しますが、一般的な区分は道央・道南・道東・道北の4つです。
この4区分は支庁で分けられています。
道央には石狩支庁・空知支庁、後志支庁、道南には渡島支庁・檜山支庁・胆振支庁・日高支庁、道東には網走支庁・十勝支庁・釧路支庁・根室支庁、道北には上川支庁・宗谷支庁・留萌支庁が含まれます。
この4つの区分方法の他にも、6つの圏域に分ける「地域生活経済圏」、5つの圏域に分ける「観光圏」と呼ばれる区分も存在します。
ただ、観光圏の区分は現在ではあまり使われなくっているようですね。
現在はこのような区分けがなされていますが、北海道が正式に日本の土地になる前の蝦夷地時代には、東蝦夷地・西蝦夷地の2つに分けられていました。
両者は知床-大雪-千歳を境として、太平洋側が東蝦夷、日本海側・オホーツク海側が西蝦夷と呼ばれていたのです。
北海道が日本に組み込まれる前、蝦夷地以外の地域は既に藩に細分化されていたことを考えると、やはり蝦夷地はそこまで中央の統治が行きわたっていなかったということがうかがえますね。
【まとめ】
北海道はそもそも日本でなかった土地です。
明治時代に入る前に、この地における日本の支配体制がそれほど確固たるものでなかったために、県ではなく道として機能するようになったのですね。
北海道の名づけ親である松浦武四郎もなかなか興味深い人物です。
特に、アイヌの人々との関わりをもっていたという点については気になる点ではないでしょうか。
アイヌ民族の歴史については、「北海道アイヌ民族の文化と歴史まとめ! 差別や和人との戦い内容とは?」で詳しくご紹介しています。
気になる方はぜひご覧くださいね。
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皆さんからのコメントをもとに、より充実した記事を執筆してまいります。
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